接客業はつらいよ! あけすけビッチかんどー日記!

昭和のメスの生き残りとして、ぎりぎりまで足掻く35過ぎ、おんな盛り。特技は人を愛することです。継続性はございません。

恋愛とは「時間軸」である。異論は認めない。

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恋愛とは、一体何だろうか?

 

そもそも「心」とはどこにあるのだろう。「脳」なのか「胸」なのか。あなたはどっち派だろうか。(わたしは個人的に「膣」派です)

 

 

骨まで愛して

相手を想うと胸が苦しい。ほかのことが考えられない。こんなに辛いならいっそ消えてしまいたい。もしも相手に食べてもらえるなら、自分を食べてしまってほしい。相手の一部になりたい。

 

恋愛期でない人が聞いたらおよそ狂気の沙汰であるが、恋愛期においては、これは当たり前の感情となってくる。人間とはかくも恐ろしい狂気をたずさえた動物だ。人の感情ほどコントロールしやすいものはなく、同時に思いつめた人の感情ほど怖いものはない。

 

「骨まで愛して」「骨抜き」どちらも馬鹿げた表現なのに、当事者になるとこの言葉がいかに的を射ているかがわかる。

 

 

見捨てないで

見捨てられること、遊び終えたおもちゃのようにポイと捨てられること。これがとても恐ろしい人が多いのではないだろうか。実際わたしの周囲でも「捨てる」「捨てられた」の話を聞くが、「振られる」よりも「捨てられる」方がずっと悲愴だ。あれか。最後まで面倒みきれないなら付き合うなということか。そんなの無理である。

 

好いた惚れたは個人の感情の揺れ動き。好いてもらえないならばあきらめるしかない。相手から飽きられてしまった場合もあきらめるしかない。好いてもらえるように行動し、付き合えたら飽きられないようにするしかないのである。すべては相手の感情より先に行動しないと始まらない。究極の先読みゲームである。

 

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恋愛とは「時間軸」ではないか?

ここまで書いた流れをぶった斬って申し訳ないが、わたしは恋愛とは「その空気をまとっている時間」のことではないかと思っている。

 

通常の時間の流れとは別に、そういう独特の好奇心の尖り、相手への想いに翻弄される身体、頭の中身が全部持っていかれる感覚。その時間軸のことを総称して「恋愛」と呼ぶのではないかと思っている。

 

物語でいうところの「場面転換」があって、ある一人の人間が「恋愛の時間軸」へと入り込んでいく。そういうものじゃないかとわたしは考えている。

 

 

 

わたしは、ふだんエロいことばかり考えているように思われるけれど、実はそんなことはない。

 

本当にエロいことを考えている人は、こんなめんどくさいことをいちいちテキストにしない。この時間も「やれそうな相手」という特定の個人に向けてテキストを打っている。こんなふうに中途半端に公開された場所にテキストを打っている暇などないのだ。

 

ちなみに最後になるが、わたしには「ブログ」という時間軸があった。過去形にしてしまうのは、その時間軸が終わったことを自分で感じているから。毎日更新をやめるまでのわたしは、毎日を生きている自分の中に「ブログ」という時間軸が確かにあった。逆を言うと、それだけ「ブログ」に縛られていたということになる。

 

 

「恋愛」も人を強烈に縛ってくる。頭の中がお花畑になったり、いきなり崖から突き落とされたような気持ちになる。二時間先のことがわからない。

 

普通なら相手と二時間離れたくらいで不安にはならないが、恋愛においては相手がたまたまその二時間で失恋の本を読んでしまい、超不安になってしまう…などということがある。今すぐ相手のもとに向かわなくてはならない…というドラマティックなことも実際に起こる。

 

人生の真ん中に「仕事」や「家庭」という時間軸がある人のことを、人は「普通」と呼びたがる。(度を超すと呼ばない)しかし「恋愛」はあまり中心に置きすぎるべきではない、という認識がある。これはひとえに、後付けの理論、マーケティングに踊らされた現実なのだとわたしは思っている。

 

経済成長期に「仕事」をがんばれない人間は必要ないし、家庭を持たないと家を買わないから、家を買わせるために「家庭」を持たせる必要があった。本来、人間の生き方に正しいも間違っているも、普通も異常も無いのだ。

 

好きに生きたらいい。

 

それじゃあ、またいつか。