接客業はつらいよ! あけすけビッチかんどー日記!

昭和のメスの生き残りとして、ぎりぎりまで足掻く35過ぎ、おんな盛り。特技は人を愛することです。継続性はございません。

映画「悪い女」(原題「Slat」)を観たら深淵を覗いてしまった話

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こんにちは、かんどーです。


映画「悪い女」を観ました。イスラエルの映画です。言語も英語ではありません。最後まで観るつもりもない映画でした。しかし、どうしようもなくもどかしい気持ちが湧きおこり、最後まで観きってしまいました。


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原題の「Slat」とは、ご想像の通り、ビッチをもっとひどくした言葉です。展開自体もスピード感があるわけではなく、伏線が張られているにしても全体の淡々とした雰囲気はずっと続き、たまに動きのあるシーンと言えば男女の行為をしている場面か、馬が走っている場面くらいです。


この映画を観て、わたしは二つの意味で泣きたくなりました。


ひとつは、主人公のひどいビッチ女の気持ちが痛いほどに理解できてしまったこと。おそらくこの映画を観て「つまらない」と思う人はこの女の気持ちが理解できないのが要因と思います。わたしはまずここをクリアしてしまいました。


そして、全体的に漂う圧倒的な退屈。これはわたしの書く文章にぴったりと当てはまりました。自分で言うのもアレなんですが、わたしの書くものって退屈なんですよ。エンタメ性もないし新しい発想も取り入れられていない。ただ女だって性欲はある、みたいなことを延々こねくりまわして、動きと言えばたまに車に乗って遠出したとか、LCCで海外行ったとかそんなもんです。

 

※この作品は退屈を作品に昇華させる力があってわたしは無力です、おなじものをイメージしても表現できるか否かは別問題という苦悩がありました。

 




わたし、世の中って、大概つまんないと思ってるんですよ。


つまんないから、気持ちいいことして目の前にある快楽をもぎとりたいって思ってるんです。その事実から目をそむけたかったのに、思いっきり向き合わされてしまった。この映画は恐ろしい映画だった。




わたしは年齢的にも、もう「表現する」種類の作業はやめてしまおうと思っているところがあって、本当は好きな演劇、音楽、小説、どれも深くハマりすぎないように注意深く作品を選んで鑑賞してきた。


キャラクターに感情移入はしても、作品自体に移入しないように。セリフに感動しても芝居の世界に取り込まれないようにと、必死で境界線を意識して、そこをまたぎこさないようにと自分の頬を叩きながら作品を観てきた。


「下北沢」が恥ずかしい。「サブカル」とひとくくりにされそうなものを観るのが恥ずかしい。フリッパーズギターなんて知らねえし。若いころボサノバなんて聴いてねーし。ジャズ聴いてる自分に酔ったことだってねーよ。


表現している若い人を見下してしまう自分が大っ嫌いで死にたくなる。あの世界が大好きで仕方がないくせに。「そんなに好きじゃないです」って顔をしながらでないと何一つ鑑賞すらできなくなっていた。

ジャマが入らない華道やらスポーツやらは恥ずかしい気持ちなくやれた。とにかく「文化」みたいなものがものすごくイヤだった。そんなものわたしには無くて良いって思ってた。ほんの二時間前、この映画を観る前までね。



元をたどれば、クラブシンガーの仕事で努力をしすぎたことが原因だと思う。あの世界はもっと肩の力を抜いてやる世界だったのに、わたしは人生賭けてクラブシンガーをやってしまっていた。もっと抜いた歌い方の方が良いよな、と最近はよくわかる。

自分大好きで声を張って歌うのがカッコイイのは一部の人だけで、ほとんどの音楽は肩の力を抜いて周りの音を聴くことからスタートする。ああ、今ならクラブシンガーを楽しめそうな気がしてくる。やらないけど。



表現なんて、すればするだけつらいことをわたしは知っている。それは歌だって小説だって絵だっておなじだ。全部やった。歌だけ仕事にしてた時期があって、わたしはこの三つの中で歌が一番嫌いだ。文章を書くことは少しだけお金をいただいたことがあるけれど、小説ではないからあれは「レポートの提出」のようなものであって表現ではない。表現とは世界観を表すことだ。もっとわかりやすく言うと、0から1を作り出すのが表現だ。今ある世界をまとめることも表現になりうるけど、わかりやすいのは0から1を作る気概でやるのが表現だってこと。(このへん書いててイライラしてくる)


人は「表現者です」と言ってしまった瞬間からたくさんのおもりを肩に背負うような重苦しい気持ちになる。そしていつからだろう、わたしは「すべてを失わなければ表現などできない」という口上でもって逃げるようになった。音楽や演劇をしてる人は貧しくて当然、とかいう謎ルールも大嫌いで、もうあの世界に関わりたくないと思っていた。


わたしは今、すべてを失ってたりなどしていない。だから表現はできないのだよ。そう思っていた。小説を読むのも書くのも好きすぎて仕方ないくせに、没頭し過ぎないように自分にブレーキをかけていた。「仕事の合間に読んでいるのだよ」。好きで仕方がないくせに、時間を忘れて読んでいたくせに。読んでいたら書きたくなったくせに。



つまらない文章を打ち続けたっていいじゃないか。


誰にも読まれなくたって、永遠に映像化されなくたって、自分の脳内でその世界がくっきりとイメージできるための手段が小説なら、それを書けばいいじゃないか。すぐにリアルタイムで誰かの反応がもらえるブログなんてもうやめて、今すぐ小説を書け!!


わたしのなかの誰かが叫ぶ。
そうすべきなんだろうけれど、もう一人の誰かが同時に叫ぶ。


「あなたはブログのコツを知ったでしょう? こっちを書いている方が今の時代道が拓けるのよ。こっちを書きなさいな」




映画「悪い女」。


この映画を観た瞬間に、わたしは自分の生きてきた軌跡をすべて消し去って、表現に取り組まなければならないような気持にさせられた。そこはとても怖い世界で、ドアを開けても真っ暗で誰もいなかった。だけどきっと、この暗い道を歩いていくことでしか、終着点にはたどりつけないのだろうな。最初からパートナーがいて、暗闇でも手を引いてもらっている人がいるのも知っている。でも、そんな歩き方求めてない。歩くなら一人で歩いてやる。誰も一緒になんて来なくていい。先に歩いてる人にも声なんてかけない。



今持ってるものを、いくつ捨てたら、たどりつけるだろう。



軽く拾えそうなものばかり拾っていったほうが、人生は充実するのだと痛感している。実際今、ものすごく充実した人生が目の前に広がっていて、幸せなはずなのに対角線上にある不幸がこうしてたまに悪戯してくる。


ああ、実はわたしの中で仕事も英語も政治も、パーツでしかないのかもしれない。表現するために知っておかなければならない事実の一つというだけで、本当にやるべきことは……




こんな映画、観なければ良かった。
心からそう思ったクソ映画だった。
行為をしてすべて忘れてしまいたいと思った。


それなのに、文豪がよく「行為することでしか自分の存在を感じられない馬鹿な女」を作中に登場させていることにイライラして止まらない。だから行為もまっすぐにできる自信がない。(始まれば没頭はするだろうな)

 

文豪!   お前が自分勝手に小説書いてたから女は献身的にお前に尽くしてたんだよ! そんなこともわからず女を「馬鹿」と表現して登場させるんじゃねえ! ふざけんな。



まとまんない。また明日。